[第44話]アメリカに渡った漂流民 板貝村伊之助聞書

 漂流民と言えば、ジョン万次郎や浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)などが幕末の日本外交史に登場した人物として有名ですが、歴史の表舞台には現れなかったものの、越後の漂流民伊之助も彼らと同じくアメリカに渡った人でした。

 伊之助(『外務省外交資料館 続通信全覧』・『新潟県史』では「勇之助」)は天保3年(1832)、越後国岩船郡板貝いたがい村(旧山北町さんぽくまち)に生まれました。嘉永5年(1852)、19歳の時、「八幡丸やはたまる」の乗組員として蝦夷えぞへ向かいました。その帰路、船は暴風により松前沖で遭難。積荷の塩ますや雨水で命をつないでいましたが12人の乗組員は次々に死に、生存者は伊之助一人となります。漂流約9か月後、半死半生の状態でアメリカ商船エマ・パッカー号に助けられ、アメリカへ渡ります。それから約1年間、彼はストンシッペという船の番人として生活することになります。この間、同じ日本の漂流民である浜田彦蔵と会っています。彦蔵の自伝には伊之助は脇差を身に付け、身のこなしも丁寧で役人風に見えたこと、日本語で話しかけると大変驚き、助けを乞うたことなどが記されています。また、1853年10月8日付けのアメリカの絵入り新聞「イラストレイテッド・ニュース」に「八幡丸」や伊之助に関する記事が掲載されました。

 嘉永7年(1854)6月、伊之助はカリフォルニア商船レディピアス号に乗り、帰国の途につきます。同年3月3日、日本はアメリカと日米和親条約を締結しており、当時のアメリカにとって漂流民送還を通商交渉の手段に利用したいという思惑もあったようです。こうして伊之助は日本の幕末外交政策が緊迫する最中、帰国を果たしました。英語がある程度理解できたことから、通訳にしてはどうかとの考えが幕府にはあったようです。しかし、本人が帰郷を強く望んでいたため、下田・江戸での取調べの後、領主の米沢藩に引き渡され、同年の8月、故郷板貝村に帰りました。

 北蒲乙村丸岡家文書には、庄屋辰蔵に伊之助が語った文書が残っています(請求記号F41-15)。その内容は「みなとはサンフランセシコといふ 都はニウヤラカといふ 御奉行はガハナといふ 男をマンといふ 女をヲンメンといふ」など、英語の意味や伊之助が初めて見たアメリカの街の様子、さらに着用していた洋服などが克明に綴られています。庄屋辰蔵は、伊之助の話を興味津々と聞き入ったに違いありません。

八幡丸が目指した蝦夷(北海道)の画像
【八幡丸が目指した蝦夷(北海道)】(請求記号E9903-99)

伊之助の漂流ルートの画像